やくざ映画・任侠映画の総点検

 大衆に愛され続け、しかも不当な扱いしかされなかったいわゆる“B級映画”に照準を合わせ、その生成と哀滅をたどりながら証す大衆文化論。  

            


最後の侍・市川雷蔵

 三十三年の『旅は気まぐれ風まかせ』(小国英雄脚本)は若き大前田英五郎の本物と偽物のコンビがおりなす痛快な道中物で、最後までどちらが本物だかわからないようにできているところがミソであった。偽物役を演じた根上淳の武骨ぶりがなんともおかしく、前髪たらした中年男の若衆姿には思わずふき出した。

 『かげろう侍』(池広一夫)はグッと変って道中物のサスペンス・スリラー。伊豆の温泉宿に泊りあわせた何組かの奇妙な客の間に起こる殺人劇、次から次へと起きるどんでんがえしで、これまた誰が犯人だか最後までわからない。この作品はヒッチコック映画の完全なパロディで、最後に犯人に追いつめられた主人公とヒロイン(中村玉緒)が崖のへりで格闘を演じ、犯人を崖下に落としたまではいいが、ヒロインまで落ちそうになる。やっと手をのばし、ヒロインの手をにぎり、グィと引き上げると、突然画面は変って、そこは塔の上という仕かけ。おわかりですね。『北北西に進路をとれ』です。

 『濡れ髪剣法』(加戸敏)は、剣をとっては家中第一とうぬぼれていた若殿(雷蔵)が、許嫁の姫(八千草薫)に「みんなお追従なのですよ」と笑われ、その近習(小堀明夫)にさんざん打ちまかされ、自分の立場を知った彼は、あらためて修行のために藩を蓄電し、身を落として江戸へと向かう。こうして世間知らずの若殿が日常の荒波にもまれながら重ねていく失敗ぶりを軽妙に描いていく前半はしごく面白いが、後半、お家騒動になるあたりからぐっとつまらなくなってしまう。しかし、この作品あたりから雷蔵のユーモア性が板についてくるのである。

 『濡れ髪三度笠』になると随所に風刺が入ってくる。城の若殿(本郷功次郎)が危険な道中をするために、これまたやくざに姿をかえる。気ままな股旅やくざ濡れ髪の半次郎(雷蔵)と知りあいいっしょに旅をしていく途上でいろいろなことが起こる。当時、次々と意欲作を生み出していた東映の沢島忠作品にも匹敵する現代用語がポンポンと小気味よく飛び出す新感覚時代劇の傑作である。

 『浮かれ三度笠』は、やはり若殿が旅烏に身を変え、家出した許嫁の姫(中村玉緒)と結ばれるまでにお家騒動をからませたもので、この種のマンネリ化はどうしようもない。

 『濡れ髪喧嘩旅』は、旅烏のおさらば伝次(雷蔵)と役人遠山金八郎(川崎敬三)のコンビによる道中物。貯金ばかりを楽しみとするチャッカリやくざと女にだらしないとぼけた侍のコンビが実にいい。手数料をもらって侍の用心棒となってはみたものの、危険がせまれば金だけもってドロンしてしまうおさらば伝次の現代性は、義理や人情にしがみついている古典的やくざ物をそのままパロディックに皮肉っている。しかし、これまた後半、古めかしい兄妹の愛情話にすりかえてしまい沢島忠ほどの徹底さがないのが残念である。

 これら一連のコメディ作品は三十六年『濡れ髪牡丹』『おけさ唄えば』と続き、三十七年『江戸へ百七十里』(森一生)、『陽気な殿様』(森一生)、三十八年『影を斬る』(池広一夫)の『ジャジャ馬馴らし』のパロディにまで盛り上がるが、もはやその頃になると時代の嗜好は、『忍びの者』の残酷さや『眠狂四郎』のエロティシズムの方に移っていき、以後、まったくこうした作品は作られなくなる。そして、泥くさいユーモア(人間味)だけが「座頭市シリーズ」の中に吸収されていくのである。